2010年4月6日火曜日

環境論  ⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅧ    伊藤 貞彦

                
特論:物質循環をめぐって(1)

「石油は限りある資源だね」
「うん」
「じゃ、水は?」
「水は無限じゃないの?」
「残念でした、有限です」
「だって、大昔からいくら使ってもなくならないよ」
「それは、廻りまわっているから」
(一)
本年10月に開催の迫っている生物多様性についての締約国会議COP10について、条約事務局の世界目標案がまとめられ、3月17日に発表された。
それによると、「自然と調和した暮らし」を究極目標として、2050年を目標に、「生物多様性を保全・再生し、継続的に利用する」ことの実現をめざすとしている。そして、そのための保護区の面積拡大等の施策を、20年までの目標としており、COP10では、この施策の策定が中心課題となるであろうとのべている。この施策の内容としては、陸域・海域の15%以上を保護区とすること、劣化した森林を15%回復させること、生物多様性の保全への資金や人的資源の活用を10倍に増やすことなど、およそ20項目ほどが掲げられているのである。
ここで、陸域・海域の保護とか、森林の回復とか、森林の回復とか、生物多様性の保全といわれていることは、ひっくるめれば荒廃にさらされている陸・海・森林等の生態系の回復・保全を図るということであろう。しかし、これまでもこうした課題は検討されはしたが、そうした生態系を多く抱える途上国が、開発制限への警戒から反対を唱えているため、合意に至ったことはなかった。
途上国の反対論は、勿論生態系への無理解によるものではない。大体そうした地域を荒廃に追い込んだのは先進国の資源開発資本であり、それを途上国がようやく自力で開発し得るようになった途端に今度は保護だというわけである。これでは、途上国が反対を主張するのも当然であろう。この問題をどう突破するのかが、会議の議題であるはずである。そのことに触れない事務局案など、無意味なものにすぎないといえよう。
ところで、では、生態系とは何であろうか。生物は、他の生物や無機的環境との間で、エネルギーや物質をやり取りしつつ複雑な関係を結んでいる。こうした関係の総体のあるまとまりを生態系という。だから、森や海や砂漠や湿地にもそれぞれの生態系があるが、地球もまた生態系としてとらえられるものである。この生態系においては、物質はぐるぐる廻っており、まわっていることで系(関係の束)を支えているといえる。そのことを、考えてみたい。

(ニ)
この世に存在している物は、鴨長明ではないが、消えたり生まれたり形をかえたりしてぐるぐる廻っている。そのように、事物がぐるぐる廻っているという考えは、人類の世界意識の最古層にある考え方と思える。だが、こうした考え方は、決して荒唐無稽のものではない。日の出、日の入り、月の満ち欠け、草木の四季の変化、星や潮汐、風や河川の流れの動きを見ることで、自然世界についてこうした考えをもつことは極めて自然であるからだ。事実こうした考えは、エジプトやバビロニアにおいては暦を生んだし、アフリカやアマゾンの狩猟採集生活を営む人々や、アメリカ大陸のネイティブアメリカンや日本のアイヌの人たちの伝承の中にいくらでもみてとることができる。人類が、原初の生活体系として狩猟・採集の段階を経て農耕・牧畜に至る文化段階を歩んだとすれば、こうした世界認識は原初のものとして、人類に普遍であるといえる。
然るに、西欧では、こうした考え方はかなり早い段階で、未開の思考としてきりすてられていったと思われる。例えば、西欧文化の古典とされているギリシャにおいては、世界に存在している事物の、不断の変化を起こさせている原理が何であるかが問われていく。そこから、ヘラクレイトスの火とか、タレスの水とか、デモクリトスの原子(モナド)とか、プラトンのイデアとかが抽出されてきた。こうした展開を受けて、アリストテレスは、イデアは事物の現象を離れてあるものではなく、事物の現象の内にこそ起動因としてのイデアを追求しなければならないとした。このように事物の現象の内に起動因(法則)をみようとしたことで、アリストテレスは近代科学への途を開いたとされるが、そうした意味で彼が発見されるのは、万物の運行は神によるとしてきた中世的思想が否定されるルネッサンス以降のことである。
事物の存在理由をその現象の内に問うという視座の転換によって、ガリレオの実験や、ニュートンの力学(地上の運動と天上の運動を質料という共通性で結びつけた)といった大きな業績が生まれたことは周知のとおりである。
しかし、ルネッサンス以降のこうした考え方に大きな根拠を与えたのはデカルトであった。デカルトは、神によらない事物世界の説明原理を求めて、全てを疑い、その果てに自分の経験と、その経験について考えている自らの観念の存在は疑い得ないとした。つまり彼は、経験でとらえられる現象と、それを理解しようとする認識だけを出発点にすべきだとしたのである。
そこで彼は、いきなり現象の全体はつかめぬ以上、複雑な現象を要素に分解(分析)し、要素と要素を結ぶ関係(法則)をつかむべきことを提唱した。こうした方法論によって、物質―原子―原子核―核子(陽子・電子)―クォーク といった物質の階層とか、生命体―個体―細胞―タンパク質―アミノ酸―DNA といった生物の階層の把握がなされていったのであった。まさに、西欧近代科学のめざましい展開といってよい。

(三)
原始の人々が直感的につかんでいた、この世界を形づくっている物質のぐるぐる廻りの問題を、それこそ世界の実相であると捉え、哲学化したのはインドであった。
インド哲学はウパニシアド哲学といわれるものであるが、今日もヒンドウ教としてインドの宗教的、政治的思想の根幹を支える理念的基盤となっている。
その考え方は、紀元前2,000年頃に生まれ、前500年頃に哲学的に整備されたといわれている。その教理は経典としてのブラーナ、スートラや、叙事詩としてのラーマーヤナ、マハーバラタなどにまとめられているが、大まかにいえば自然信仰の多神教と言ってよい。古代日本の山の神、川の神、海の神、木の神などの並存を認めるアニミズムである。
このヒンドウ教の世界原理となっているのが、世界=物質(神でもある)のぐるぐる廻りであるとする輪廻(サンサーラ)思想である。その様相を略述すると、次のようになる。人が死ぬと火葬する。すると虚空へ昇天し日の中に入る。そして風となり、煙となり、霧となり、雲となり、雨となる。雨は草木や穀物に入り、それを食した人間の精子となる。そして、再び人間として生まれるというのである。こうして世界は、この無限循環より成っているとする。こうした世界把握を前提にして、ここにこの世の人間の行為に基づく業(カルマ)による因果応報という思想がからめられ、カースト制を結果したりしたのであるが、それはここでは問わない。問題はこの輪廻という考え方のほうである。この考え方は、仏教の中にも根本思想として取り入れられることで、新たな展開をみせることとなる。(つづく)

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