2011年12月29日木曜日

小集会が社会を変える

中根千枝の本をよむと、日本人の特徴として「集団によって行動し、集団の思想に影響されて生活する」という意味のことが書かれている。ヨーロッパでは「個人」は、原子が並んで物質がつくられるように個々に並んで社会を創る「単位」として捉えられるが、日本では「どこそこのだれそれ」という形で捉えられるという▼福沢諭吉から丸山眞男にいたるまで日本のインテリたちの多くは、こういう日本人の傾向を「個が確立されていない遅れた状態」と捉えていたようだ。しかし最近の内山節などは、「遅れた状態ではなく、別の文化と考えたらどうか」と言っている▼話は飛ぶが、日本のおサルは「けんか」をしないそうだ。アフリカや南米のサルは「ボス」がいて仲間を率い、別の群れと遭遇するとボスが戦いを挑んで相手を駆逐する。ニホンザルは戦いを避けて場所を譲るという。そんな優しいおサルを造ったのは、日本の優れた生態系であろう。人間も縄文以来、優れた生態系のおかげで「平和な」文化を創ってきた▼そうだとすれば、日本人の「集団で行動する」という文化は「自分勝手でなく他人を尊重する文化」なのであり「遅れた文化」どころか「優れた文化」と捉えなおすべきではないだろうか▼そこで相談だが、日本人が「集団で行動し、集団で考える特徴をもつ文化」だとしたら、私たちも進んで「小集会」「集い」を創ったらどうだろうか▼18世紀から19世紀にかけてフランスを中心にヨーロッパでは「サロン文化」が華やかだった。お茶でも飲みながら世間や文化の話しをするという「あれ」である。その会話の中に「時事問題」などをちょっとだけ入れてみよう。それで世の中が変わる(S)

2011年12月3日土曜日

ウェルカム・ウルフ

先日松本市で、オオカミを日本に導入しようというシンポがあった。日本には昔から「ニホンオオカミ」と北海道の「エゾオオカミ」の二種類がいた。その他に「ヤマイヌ」という種類もいたらしい▼1905年、奈良県の東吉野村で、イギリスのアンダーソンが、標本にするため買い上げた動物の死体が「ニホンオオカミ」の最後の目撃情報となった。二日前に材木置き場に迷い込んだ「狼」を猟師があっさり殺してしまい、投げ捨てておいたのだという▼あまりにもあっけない「最後」であった。有名な日本海海戦の四ヶ月前のできごとである。その後数年はどこかに生きていたとしても、今から百年前には絶滅したことは確実であろう。奈良県は一九八七年にその場所にレプリカをつくった▼江戸時代まで日本民族は狼に尊敬の念を抱いていた。「オオカミ」という呼び名からして「大きな神」を意味する。各地の神社には「オオカミ信仰」が今でも生きている。コマイヌの「ア」「ウン」も狼らしい。狼が子育てを始めると巣穴の前にお供えをした地方もあったという▼そんな「神の使い」が明治政府の「文明開化」の呼び声と共に「悪魔の使い」へと変化し、一斉に「狼狩り」が始まった。北海道ではアメリカの牧童を指導者に「ストリキニーネ」という毒薬を用いて大量に毒殺した▼いま鹿の大量発生がいわれており、先日のシンポでは、オオカミの絶滅が原因で生態系が変化し鹿や猪が大量発生したのだとオオカミの復活を強調していた。ドイツの「オオカミ復活作戦」の報告が極めて印象的であった▼しかし、オオカミの導入・復活の実践には、前提として「生態系とは何か」という哲学が必要である(S)