2011年12月29日木曜日

小集会が社会を変える

中根千枝の本をよむと、日本人の特徴として「集団によって行動し、集団の思想に影響されて生活する」という意味のことが書かれている。ヨーロッパでは「個人」は、原子が並んで物質がつくられるように個々に並んで社会を創る「単位」として捉えられるが、日本では「どこそこのだれそれ」という形で捉えられるという▼福沢諭吉から丸山眞男にいたるまで日本のインテリたちの多くは、こういう日本人の傾向を「個が確立されていない遅れた状態」と捉えていたようだ。しかし最近の内山節などは、「遅れた状態ではなく、別の文化と考えたらどうか」と言っている▼話は飛ぶが、日本のおサルは「けんか」をしないそうだ。アフリカや南米のサルは「ボス」がいて仲間を率い、別の群れと遭遇するとボスが戦いを挑んで相手を駆逐する。ニホンザルは戦いを避けて場所を譲るという。そんな優しいおサルを造ったのは、日本の優れた生態系であろう。人間も縄文以来、優れた生態系のおかげで「平和な」文化を創ってきた▼そうだとすれば、日本人の「集団で行動する」という文化は「自分勝手でなく他人を尊重する文化」なのであり「遅れた文化」どころか「優れた文化」と捉えなおすべきではないだろうか▼そこで相談だが、日本人が「集団で行動し、集団で考える特徴をもつ文化」だとしたら、私たちも進んで「小集会」「集い」を創ったらどうだろうか▼18世紀から19世紀にかけてフランスを中心にヨーロッパでは「サロン文化」が華やかだった。お茶でも飲みながら世間や文化の話しをするという「あれ」である。その会話の中に「時事問題」などをちょっとだけ入れてみよう。それで世の中が変わる(S)

2011年12月3日土曜日

ウェルカム・ウルフ

先日松本市で、オオカミを日本に導入しようというシンポがあった。日本には昔から「ニホンオオカミ」と北海道の「エゾオオカミ」の二種類がいた。その他に「ヤマイヌ」という種類もいたらしい▼1905年、奈良県の東吉野村で、イギリスのアンダーソンが、標本にするため買い上げた動物の死体が「ニホンオオカミ」の最後の目撃情報となった。二日前に材木置き場に迷い込んだ「狼」を猟師があっさり殺してしまい、投げ捨てておいたのだという▼あまりにもあっけない「最後」であった。有名な日本海海戦の四ヶ月前のできごとである。その後数年はどこかに生きていたとしても、今から百年前には絶滅したことは確実であろう。奈良県は一九八七年にその場所にレプリカをつくった▼江戸時代まで日本民族は狼に尊敬の念を抱いていた。「オオカミ」という呼び名からして「大きな神」を意味する。各地の神社には「オオカミ信仰」が今でも生きている。コマイヌの「ア」「ウン」も狼らしい。狼が子育てを始めると巣穴の前にお供えをした地方もあったという▼そんな「神の使い」が明治政府の「文明開化」の呼び声と共に「悪魔の使い」へと変化し、一斉に「狼狩り」が始まった。北海道ではアメリカの牧童を指導者に「ストリキニーネ」という毒薬を用いて大量に毒殺した▼いま鹿の大量発生がいわれており、先日のシンポでは、オオカミの絶滅が原因で生態系が変化し鹿や猪が大量発生したのだとオオカミの復活を強調していた。ドイツの「オオカミ復活作戦」の報告が極めて印象的であった▼しかし、オオカミの導入・復活の実践には、前提として「生態系とは何か」という哲学が必要である(S)

2011年8月28日日曜日

クイズ番組型教育機構

回答を隠し持った問題提出者がいる。参加者はその答えを正確に射止めれば、賞がもらえる。こうした場面を想像してください。どんな場面でしょうか▼「それはクイズ番組でしょう」とお答えの方、この場合は「不正解」です。私の言いたいことは…?。日本の教育です▼先日ハーバードのサンデル教授が日本に来て、講義のモデルを公開していました。サンデルさんは「答え」を持たず、「正義とは何か考えてみよう。A君どうだね。では反対意見は無いか、B君。」などとやっていましたネ。「日本の教育の仕方とかなり違うな」とショックを受けました▼日本の教育は教師があらかじめ「答え」を用意し、隠し持ったその答えを当てたものが「優等生」となり、当てられなかったものは「おちこぼれ」となる。優等生は都会へ上り(一寸法師のように)出世する。「おちこぼれ」は田舎に残り、百姓やラーメン屋になる以外ない▼そんな優等生が官僚になるとどんな官僚に育つのでしょうか。上官や国の意向をクイズ番組よろしく見事に当てて、その論理に従って行動する、「〇」をつけるべき場所に「×」をつける仲間がいると、「やつはバカだ、おちこぼれだ」と排除する、という官僚が出来上がる、という仕掛けです▼つまり、「民衆の生活など二の次だ。官僚優位の社会を創るぞ」という官僚郡が出現します。そういう教育機構になっている、というわけです▼つまり、日本の教育は「クイズ形教育機構」になっていたのです。こんな教育を明治以来百何十年も続けてくれば「物言わぬ民衆」(劣等生の群れ)が出現する一方で、支配者のために鬼退治をする一寸法師の群れが出現するのです。「原子力ムラ」もそうやってできたのではないでしょうか(S)

2011年8月7日日曜日

責任を明確にせよ!

日本国民は終戦時から戦後にかけて、戦争責任を明確にすることがなかった。そのため戦後の無責任体制が出来上がったといわれている。ドイツではニュールンベルク裁判の後、国民自らが「ナチス糾弾法」をつくって戦争指導者の責任を追及したが、日本では東京裁判で数人の被告が処刑されたあと、国民自らは戦争責任を追及せず、全てを水に流した。戦後、官僚や政治家が失政に対して誰も責任を取らないのは、戦後処理の甘さが災いしているのではないか▼このほどの原発事故に際して、未曽有の災害の責任を誰が取るのか。これは明らかに人災であり、責任者が居るはずではないか。マスコミにこの話題が載らないのは、どうしてだろうか。マスコミ自身に責任の一端があるからではないのか▼七月八日、ジャーナリストの広瀬隆氏と明石昇二郎氏は東電の勝俣会長をはじめ最高幹部三名、原子力安全委員長の斑目春樹、長崎大学山下俊一など三二名を、東京地検特捜部に告発した。告発人の広瀬隆氏は「チェルノブイリ以上のことが起きている。彼ら三二名をはっきり悪党と呼ぶ。はっきり呼ぶ」と記者会見で奥歯をかみしめたという▼酔っ払い運転のトラックが学童の列に突っ込んだら、運転手は裁判に掛けられるだろう。福島の民を故郷から追放し、子供たちを放射能の危険にさらしながら、誰も責任を取らず、勲章をもらい、(中曽根康弘は大勲位だ)高額な退職金をせしめ、のうのうと暮らしていることが許されていいのだろうか▼この際、戦後処理のあいまいさを反省し、失政に対しては責任を明確にすることを当局に求めるものである。そのことが、民主主義の成熟度を占う試金石となる。民族の危機に際し国民の決起を期待したい(S)

2011年7月20日水曜日

■ 風土学    清水馨

■ 風土学をはじめるにあたって
大正期から昭和にかけて諏訪で活動した三澤勝衛の「風土の発見と創造」いわゆる風土論が今、日本ばかりでなく世界の、新しい持続可能社会を目指す人々の間で注目を集めています。ここ十年ほど、地球をとりまく環境、とりわけ地球温暖化やエネルギー資源(食料を含む)の枯渇、投機マネーの横行による異常な経済システムの破綻、貧困と不公平を原因とする宗教対立、テロ、膨張する軍拡と核兵器の脅威などなど、人類のあらゆる分野で修復不可能な事態が露見しています。これは日本でもいえることです。大きな問題だけを取り出しても、地域の過疎化と都市の過密、高度成長期に始まった都市への人口集中は今、政令都市以上の都市人口が全国の地域人口を上回る勢いで膨張しています。都市は何も生み出さない、ただひたすら消費するところです。ここから大量消費型経済が始まりました。その反対に地域は過疎化によって高齢化し、経済の疲弊、国土保全もままならない状況に追い込まれています。資源はその全てが地域から生まれるものですが、都市経済は奪えるだけ奪ったのち、エネルギーは外国から、そして危険極まりない原発に依存し、食糧さえ輸入に依存するという不安定な状況を生み出してしまいました。人口が一極集中すればエネルギーも食料もその他全ての「物」が一極集中型の供給体制にならざるをえません。その典型が原子力発電を中心とした独占的な電力供給といえるでしょう。現在の日本経済の中枢をなすものは輸出入産業です。輸出入は必然的に国際競争に曝されます。その競争に勝ち抜くためには国内でのコストダウンが求められます。結果、そこで働く人々には不正常な労働条件が政策的に強制され、下請けの中小企業には納入単価切り下げとその競争が強いられます。ほとんどの下請け企業が消費税分の請求が出来ないというのが現状です。企業倒産が増加し続け、一ヶ月の給与が十万円に満たないという人々が何百万人も生まれています。このような人々に対して月収が一千万円以上という人々がいるという史上最大の格差社会。いずれもこのままの社会、経済体制の下では修復不可能なことばかりです。そして不幸にも今年3・11の東北大震災と津波災害、これに追い討ちをかけるように発生した福島原発の大人災。この事態は昭和20年の太平洋戦争終結時の廃墟から立ち上がったときと同等の民族的な一大事です。敗戦直後の日本では多くの人々が、戦前(明治期以後を含めて)の日本のあり方を反省して新しい国作りを模索しました。今私たちがおかれた状況も同じです。高度成長期から今日まで、特に小泉内閣の構造改革路線や、新自由主義政策の元で加速されたルールなき資本主義体制を根底から反省するところから出発して、新たな国作りを模索する時ではないかと思います。新しい国のありようといっても、そんなに難しい話ではありません。自然エネルギーの自給を目指す(日本は自然エネルギー資源大国)。国内消費を高めるために、男女同一労働同一賃金制と最低賃金の大幅引き上げ(時給1000円)(これで必然的に非正規労働はなくなる)農林漁業など一次産業では外国からの輸入制限で国内自給率を高めるなどなど。このような方向で循環型社会を構築することは決して不可能なことではありません。歴史的に見ても世界の中で循環型社会を経験済みの国は日本しかありません(江戸期)、そしてこれらを地域で模索しようとした時、大正から昭和にかけて諏訪の地で活躍した地理学の教師「三澤勝衛」の風土学の思想と実践がにわかに注目を集めてきたのです。

■ 三澤勝衛について
三澤勝衛は信州長野市に生まれ、苦学の末、地理科教員免許を取得し1920年(大正9年)から長野県立諏訪中学校(現、諏訪清陵高校)の教諭となり「自分の眼で見て、自分の頭で考える」教育の実践と、独自の「風土論」を確立し、風土に根ざした産業、暮らし、地域づくりに生涯をささげました。1937年(昭和12年)没。
三澤は風土について以下のような概観を述べています。

◆ 風土は大気と大地の接触面「大気でもない、気候でもない、土質でもない、独立した接触面」でありこの接触面こそ風土であり(人間の生活空間)風土こそ地域個性、地域力の源泉である。

◆ 風土に優劣はない、活かせば無価格(投資の要らない)で偉大な価値を発揮する。

◆ 自然的な特徴と、郷土人の歴史的な努力が総合さ れ、更に有機的に関連する「統一体」としての風土、言い換えれば地域が形成されていくことこそが、地域振興と個性的で魅力ある地域作りにつながっていく。
       
風土という言葉は、そんなに珍しい言葉ではありません。地域の風物やしきたり、伝統行事などを紹介する時「何々風土記」などというふうに使われたり、「この地域の風土は」などというふうにその地域の自然や景観などの特徴を言い表す言葉としても使われます。しかし三澤の言う風土は単に事象を表す言葉としてではなく、そこに生きる人々の暮らしや、産業や、コミュニテイー(共同体)にどのように生かしていくかを見据えたものとして総合的に捉えているところに特徴があります。特に地域の振興(地域産業の発展)は、地域固有の自然の力とそれを認識し活用する地域人が一体となった中で総合的に実現させることが大事であると説いています。またそれらの地域力を掴むためには野外にたって大地と大気の接触面に現れる「地表現象」(地形や風向き、気温、湿度、植生から古くからの土地利用、屋敷や村の姿、などなど・・)に注目し、その地域に合った現象を選び、他の地域とも比較し、総合的に判断していくことで把握できる。また科学についても現代科学を駆使しつつも細分化され断片的になっている知見にとらわれず、地域の中の貴重な現象を総合的に捉える視点を持つべきであるとして、地域の探求には科学主義を超えた科学のあり方をさえ指摘しています。風土学はこのような風土の生かし方にとどまらず、教育の分野にも及び、特に郷土教育を重視することを提唱しました。自分の目で見て、自分で考えるという教育理念を元に、子供達にとって郷土(地域)はその生活の場であり、その風土現象は自分の生活と深いかかわりを持っていることを深く認識させることで魂に触れる体験ができる。地域の姿に分け入ることで物事を深く考えるようになり、そこに真の学習が成り立つと説く。郷土教育をベースに日本全国、更には世界の中の地域と自分の関係性をも認識していくことができる。そして教育者や地域のリーダー達に「いかにしてその答えに到達しえたのかという過程を彼ら(子供達)に充分呑み込ませる事に、特に関心と努力を払うべきである」として、その学び方を徹底して指導しました。

「由来、教育というものは教えるものではなく、学ばせるものである。その学び方を指導するのである。背負って川を渡るのではなく、手を引いて川を渡らせるのである。既成のものを注ぎ込むのではない。構成させるのである。否、創造させるのである。ただ他人の描いた絵を観照させるだけではない。自分自身で描かせるのである。理解の真底には体得がなければならないのである。それが人格そのものの中に完全に溶け込んで人格化されていくところのものでなければならないのである。いつまでも永く生きているものでなくてはならない。― 中略 ― 要は魂と魂との接触でなくてはならないのである。否、共鳴でなくてはならないのである。すなわち魂のある教育、否、魂に触れ得る教育でなくてはならないのである。」

この一文は三澤の教育論の一節です。三澤は自身の風土論の40%をこの教育論に割いていますが、地域の活性化という仕事の中で、その将来、未来を担う子供達の成育の如何がどんなに重要であるかを示すものとして注目されます。

■ 風土論と江戸期の循環型社会
三澤風土論の中には、地域が成り立ってきた歴史的なものにも関心を寄せ、そこから学ぶ姿勢を強調していますが、風土論を読み込むにつれ、そこには色濃く江戸期にほぼ完成していた完全循環型社会、経済体制の姿の共通性を認識させられます。今後このシリーズを通じて学び探求していく過程では、風土学と並行して江戸に学ぶことが多くなっていくことと思います。

 今回はその多くを「三澤勝衛著作集」から多くを引用させていただきました。この著作集は2009年1月、農山漁村文化協会から出版された(全四巻)ものです。
またこの出版以後風土学の学習会が幾つか生まれ、今年三月には諏訪で講演会も行われました。この講演会は、現在私が会長をおおせつかっている、長野県諏訪地方事務所主管の諏訪地域づくり協議会が主催して開いたものです。現在も三澤が教べんを取った長野県立諏訪清陵高校(旧制諏訪中学校)では学習会がつづけられています。また高校内には三澤文庫が整備され、蔵書や論文などが保管展示されています。

2011年7月3日日曜日

大転換のとき

大きな災害のあとに政変がくるということが、歴史上にあるらしい。日本でも、安政の大地震で江戸市民が何千人も亡くなったあと、安政の大獄は明治維新へとつながった。関東大震災後に軍部の台頭があった。ソ連ではチェルノブイリ原発事故の五年後に、ゴルバチョフがでて、ソ連崩壊に向った。近くは、阪神大震災が田中康夫の脱ダム宣言(政変とはいえないが)につながっている▼今、日本未曾有の大震災が、原発事故を伴って日本民族の前に大きく立ちはだかった。大転換のときである▼しかし、かつて威力を誇った労働組合は潰され、それに依拠していた左翼運動も壊滅し、良心的発言者はほされている。官僚だけが腐敗の温床の上にあげらをかき、その栄華を誇ってきた▼その官僚があたふたとよろめいている。原発事故の処理を見ていると、今まで「原子力ムラ」として殿様気分を味わっていた官僚たちが、右往左往するばかりで、どう行動したらいいのか、分かっていない様子がよくみえる▼その影響をじかに受けているのが、官僚依存だった政界である。この未曾有の危機に直面してなお足の引っ張り合いばかりで、何も建設的な論議をしていない。あのていたらくである。国民だけがいらいらし怒っている。まさに大転換を前にした大混乱である。この混乱を経て、やっと大転換の曙光が見えてくるのであろうか▼いずれにしても、政界再編制はまぬがれないだろう。組織を失った民衆はメールを使って呼びかけている。新しい変革のときは近づいている。いやすでにはじまっている。私たちはあらゆる方法を使って、この変革の波に乗り遅れないようにしなければならない。そうしない限り日本民族に未来はない(S)

2011年6月17日金曜日

環境論    ⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅢ     伊藤 貞彦

特論:再生可能エネルギー(2)

(四)
先に、原発が基幹電源に位置付けられてきた経験を見た。そのことによって、原発の建設が国策として各地で行われるようになる。原発の建設に現実的弾みをつけたのは、エネルギー基本計画実行のための法、いわゆる電源三法の成立である。
原発は、大量の冷却水を必要とするため、容易に海水を得られる海沿いの地に建設することが望ましい。現在の原発54基についても、ほとんどが海沿いにつくられている。しかし、この国の人びとには、原発の洗礼を受けたことによる核についての危機意識が潜在的に強固にある。そのため、原発の立地は決してスムーズには決定されないのである。そこで、候補地が選定されると、地元住民の説得と沿岸の漁業に対する補償交渉に長い時間が必要とされる。そのことから、原発は、建設費に加え、地元自治体、住民対策、漁業補償などで初期投資が巨大なものとなる。また、こうした交渉によって運転開始までには、殆どの場合10余年を費やすこととなるのである。ちなみに、原発1基について運転開始までの10年間で、地元には平均449億円の金が落とされるとされている。
そこで、73年の石油ショック後、こうした費用と時間を少しでも短縮するために定められたものが電源三法である。これは、電源開発促進法、同対策特別会計法、発電用施設周辺地域整備法から成り、財源は電力会社が販売電力量に応じて払う電源促進税によってまかなわれる。もちろんこれは、電気料金に含まれているわけで、一般消費者が負担させられているものである。例えば、東電の場合、一般家庭の月電気量6,222円の内108円が促進税の分といえる。
こうして確保された資金は、原発立地の諸対策費のみならず、高速増殖炉開発や、核燃サイクルの開発にも使われているのである。
とはいえ、この電源三法に基く交付金は、過疎と財政難に悩んできた原発立地を受け入れた地方自治体の経済基盤を大きく変えるものとなる。例えば、福島第一・第二原発立地の市町村には福島県全体で総額130億円が毎年公布されている。これと固定資産税収入、関連事業の群立、雇用環境の拡大などを考えると、ひとたび原発を受け入れるや否や、その他の社会的経済基盤が原発頼みの形に形成されてしまうことは火を見るより明らかといえる。この地の脱原発は、苦難の道となろう。
現在、日米政府は、モンゴルに共同の使用済み核燃料の国際的貯蔵処分施設の建設を進めようとしているが、このための資金の一部も電源促進税から支出されるのである。
わたしたちは、原発の是非を問うわけでもない選挙で、これまでの政府を選び、支え、原発促進を図ったつもりもない、電気料金で、その資金を提供し続けてきたこととなるのである。ここにメスを加えなければ、誤りは無意識的に持続されるほかはないといえる。

(五)
今回の原発事故について、その実態と、刻々と代り続ける状況についての報告が、政府、東京電力、原子力安全委員会、原子力安全・保安院のそれぞれから為され、その間の混乱や食い違いにふりまわされた。また、その報告の内容が、とても一般国民向けとはいえぬ専門用語や的外れの説明に終始しており、大いに顰蹙を買った。そこから、東電は隠蔽を図っているのではないかとか、東電と政府間のデータ突合せは不在ではないかとか、原子力安全・保安院とは単なる専門バカの状況報告者なのかとか、さまざまな批判も吹き出した。あたりまえである。もっともらしい顔はしているが、肝心のところではいかなる責任を負うことも拒否しているだけのことであった。
事故後の3月末、原子力専門家の16人が、緊急提言を行って、専門家の結集による事態の収拾を訴えた。わたしのような門外漢からみれば、あまりにも遅い反応ではないかと思える。もっと前に、現在のような原発推進・対策体制の問題点は明らかで、少なからぬ人たちが警鐘を鳴らしてもいたと考えるからである。
東大工学部に原子力工学科が設けられたのは60年である。このときの1期生は15人であったという。原発専門家の誕生である。その1人、立教大学名誉教授の安斎によると、彼はここで反原発の立場をとったことで、17年間助手に止められ、主任教授などは、研修生に対し彼との接触を禁じたと回想している。つまり、原発推進は、60年よりすでに充分国策的であり、一定限度以上のリスクは国が引き受けることを前提としていたのである。このことは、前原子力委員長代理の田中俊一が核燃料サイクル研究より現実の原子力研究の足元を固めることを為すべきと述べたところ、大攻撃にさらされたと証言していることからも伺える。国策に疑問を呈する学者が常に冷や飯を食わされ続けてきたことは、もはやこの国の伝統である。こうなれば、この国の近代化は富国強兵政策がつくりだした伝統だといってもよい。
その16人の提言は、「原子力村」の縦割り構造を打破すべきというものであった。だが、問題は縦割り構造だけではない。「原子力村」そのものの解体こそすべきものである。
「原子力村」の構成を見てみよう。先ず経済産業省のもとに、資源エネルギー庁と、原子力安全・保安院がある。前者はエネルギー政策の推進機関であり、後者は800人の人員を擁し、原始力開発に対する活動や安全等について取り締まりを行っている。内閣府には、原子力委員会と原子力安全委員会がある。原子力委員会は56年に設置され、原子力についての研究・開発・利用についての政策を決定する。委員は5人で、その下に各部会が置かれ、01年には市民参加懇談会も設置されている。原子力安全委員会は原子力についての安全規制として指針を定め審査を行っている。78年10月「むつ」の事故後、原子力委員会が政策と共に審査を行っていることへの疑問が生じ、分離設立されたものである。委員は5人で、その下に専門委員300人が属し、各専門審議会を構成している。文部科学省のもとには、日本原子力研究機構等の研究機関がある。このものものしい体制の「原子力村」と、原発をもつ電力会社には、そこに職を得ようとする多くの学者や研究者やその予備軍が連なっているのである。そこには、反原発研究者や、反原発市民の入り込む余地がないことはいうまでもない。
こうした「原子力村」ではあるが、かつては原子力委員会のもとに、旧日本原子力研究所がおかれ、その下に行政組織として旧科学技術庁がおかれる形で、原子力開発に関わる体制は一本化していたのであった。それが、行政の縄張り争いを受けて、01年の中央省庁再編の中で、この一体化が崩され、軽水炉原発事業は経産省、高速増殖炉・核融合部門は文科省に分離させられたのである。
現在、原子力安全・保安院を経産省から分離する案が出されているが、問題の根はそんなところにはない。この「原子力村」という巨大ピラミッドの解体と、新しい原子力研究・監視体制を創出することが求められているのである。(続く)

2011年6月8日水曜日

ふるさとを追われた人々

古代ローマによって根こそぎ破壊され、故郷を追われたユダヤ人は、世界各地に散り散りとなり、二千年もさまよっていた。福島の事故で「ふるさとを追われた人々」をみたとき、ふと古代ユダヤを思ってしまった▼古代ならいざしらず、二十一世紀の今、ふるさとを追われる民衆が発生していいのだろうか。人々は土地を耕し、コメを作り、魚を採って、文字通り土地と共に暮らしてきたのだ。その土地に村があり、祭りがあり、ご先祖が眠っていたのだ。生きる基盤そのものだった。その土地を追われればもはや人々は本来の人間ではなくなってしまうのではないだろうか▼ユダヤ教には「イスラエルの土地は神によってわれわれに約束された土地だ」という強い信仰があり、この信仰が、現在でもイスラエルを支えている。福島には福島の神があり、ご先祖や友人があり、生活があった▼古代ユダヤを滅ぼしたのは「他民族」であり「ジェノサイド(皆殺し)」であった。福島の民を追放したのは「同じ日本人」であり「原発という国の政策」であった▼そのように考えてくると、いかに今回の事故が深刻な悲劇であるかが判るような気がする。つまり私たちは古代ローマと同じような暴力で福島を破壊したのではないか。その加害者(政治家)を選んだ私たちも二義的には「加害者」ではなかったのか▼そう思うと泣けてくる。私たちは深く深く福島の方々にわびなければならない。何と私たちは無知であったことか。そして再びこのような悲劇を繰り返さないことを心に決めて、力強く立ち上がろうではないか▼「じいちゃんばあちゃんたち、そのとき何してたの?」と孫たちに言われないように、「二十一世紀のご先祖は立派だった」と言われる様に(S)

2011年5月28日土曜日

原子力発電を見直そう!

緊急学習集会
原子力発電を見直そう!
(2011年6月)
いま福島では大変なことが起っています。 この悲劇を繰り返さないため、わたしたちにできることはないでしょうか。
緊急学習集会を計画しました。皆様方のご参加をお願いします。

とき:6月11日(土曜日)13:30~16:30
ところ:下諏訪総合文化センター小ホール(入場無料)
DVD:今フクシマで何が起こっているか(お話:小出裕章さん)
問題提起:脱原発は浜岡廃炉から(小林峰一)
    :原発と活断層(清水馨)
    :東電フクシマ事故にみる戦後日本社会(藤瀬恭子)
    :いま私たちに何が出来るか(毛利正道)

いま世界中で「脱原発」の運動が活発化し、6月11日は 「6.11脱原発100万人アクション」と銘打ったデモやパレードが各地で計画されています。
今回の緊急学習集会はそれらの動きに連帯して計画されたものです。

主 催 脱原発諏訪連絡会 
(担当団体 環境会議・諏訪 代表 塩原 俊)
(連絡先:392-0027 諏訪市湖岸通り2-7-21-308)
(090-2525-0917)

2011年5月2日月曜日

悲しみの民族

「災害」には加害者・被害者の区別はないが、「事故」には加害者と被害者が存在する。今回の東日本大震災がもつ、災害と事故という二つの側面を混同しないことが大切であろう。これを混同し、「お互い大変ですね」「頑張ろうね」という挨拶を交わしていたのでは問題の本質が見失われてしまう▼福島の出来事は明らかに「事故」であって「災害」ではない。加害者が存在するのだ。そこを決して忘れてはなるまい。では誰がいったい加害者なのだろう。テレビを見ていると、本来加害者であるはずの人物が、平然として「解説」している▼官僚・学者・東電それにマスコミが加わって「原子力ムラ」を形成し、政治家を巻き込んで安全神話を撒き散らし「原子力行政」を強力に進めてきた。文科省は教科書を使って「安全神話」を広めてきた。問題を提起した学者は、冷遇されてきたという▼つまり今回の事故の加害者は「安全神話」をばら撒いた「原子力ムラ」の面々とそれに追随した勢力にあるのだ。酔っ払い運転をして学童の列に飛び込んだトラックに似ている。酔っ払い運転の加害者は刑法で言う「重大な過失」として、裁判にかけられなければならないだろう▼同じように、「原子力ムラ」の面々も「重大な過失」を犯したものとして裁判にかけられるべきである。当然、加害者は被害者に対して賠償する義務も生じる▼日本人は長らく「悲しみの民族」といわれ、「怒りを忘れた国民」といわれてきた。しかし、今度という今度は、様子が違っている。メールによっていろんな情報を手に入れた若者たちが、あちこちで立ち上がっている▼「悲しみの民族」は「怒りの民族」となって体制を変えていくだろう。そうならなければ日本民族に未来は無い(S)

2011年4月2日土曜日

ガンバレにっぽん!

イギリスの新聞に「がんばれ日本、がんばれ東北」という日の丸入りの日本語のコピーが載った。その下に英語で Don’t give up Japan と書かれている。つまり英語には日本語の「がんばる」に該当する単語がないらしい。マラソンの選手などを応援するときはCome onなどというらしい▼「がんばる」は比較的新しい単語だという。一万語を駆使したという漱石先生の小説には「がんばる」という語はみあたらないそうだ。かわりに「頑固張る」「我に張る」などが使われていたらしい。それらの語から大正時代に「がんばる」がうまれたらしいのだ▼昭和のはじめベルリンオリンピックで「前畑がんばれ」を連発した実況中継が流れ、その感動から「がんばる」は民衆の間で流行した。しかしスポーツ用語であったため出征する兵士などに「がんばれ」とは言わなかったようだ▼戦後、労働運動などで「がんばる」が多用され、やがて大衆の挨拶語ともなり。こどもが分かれるときに「じゃね、がんばって」などと使われるようになった▼「頑張る」とはどういう意味だろうか。「ベストを尽くす」とも違い、「全力を出す」とも若干ちがう。その人の本来持っている能力以上のもの(火事場のばか力)を引き出そうとする意味合いもある。どことなく力強さも感じる用語だ▼そして何よりも「頑張る」には仲間意識の共有がある。あいまいではあるが日本的な概念というほかない▼「がんばる」は二十世紀の日本民族が、戦争・敗戦の苦難の経験の中からつぐみだした「精神文化」である▼この文化がグローバル化の波に乗って、アフリカや中東諸国で今なお苦難にあえいでいる民衆に希望を与える「福音」となることを願っている。頑張ろうではないか(S)

2011年3月13日日曜日

ダム決壊 8人が行方不明 

須賀川の藤沼ダム(高さ18.5M)が11日決壊した。150万立方㍍の泥水が一気に流出、多数の家屋を押し流し、8人が行方不明となった。

2011年2月14日月曜日

民主党革命の挫折

一昨年成立した民主党政権には二つの大きな課題があった。一つは対米自主外交であり、もう一つは脱官僚支配であった。この二つを最も強く主張していたのは、小沢一郎であった▼小沢はアメリカの駐日大使のじきじきの依頼を拒否してインド洋での給油作戦から自衛隊を撤退させ、続いて「将来の在日米軍は第七艦隊だけで充分」と発言した。日本の官僚はこれにおどろき、検察が動いて西松事件をでっちあげ、彼を司法の場に引きずり出した。民主党は官僚の力に驚き、菅政権が「小沢きり」を断行した▼一方、脱官僚で無駄を省くと言っては見たが、思うように行かず、一月二十一日、菅は次官を一堂に集めて、今までの無礼を謝し、これからは皆さんのお力をお借りしたい、と訴えた▼つまり菅政権は、小沢の影響を排除しようとするあまり、対米自主と脱官僚の二つの目玉を二つとも放棄してしまったのである。与謝野の起用は「これからは自民党と同じことをやりますから、よろしく」と言っていると同じであった▼「平成維新」「コンクリートから人へ」というあの意気込みはどこへ行ってしまったのか。「緑のダム構想」という気高い理想はどこに消えてしまったのか。臆面もなく「マニフェストの改定」まで言い始め、増税路線を明確にした▼これはアメリカと官僚組織への全面的降伏宣言である。民主党革命の挫折以外の何物でもない。国民は動揺し「自民党がダメだから民主党に投票したのに、民主党までダメなら一体どうすればいいのか」と嘆いている▼民主党は自らが挫折した事実にさえ気がついていない。これが本当の挫折である。国民こそ言い迷惑だ。民主党は解体して出直すべきだ(S)

2011年1月13日木曜日

馬脚を現した阿部県政!

阿部知事は11月29日、浅川ダムの建設を続けることを決めたと発表しました。8月の知事選では建設の是非の判断を明らかにせず、就任後も慎重姿勢を崩さなかったが、実際には何も「検証」はしていなかったのです。
◇ 40年も前の計画
 浅川ダムは予備調査が始まったのが1971年ですから40年も前の計画です。長いことダムサイトが決まりませんでしたが、長野オリンピックの道路が必要になり、急いでダムサイトを決めて、ダムの予算を道路のほうに転用したのです。
 田中知事の脱ダム宣言により一旦中止されましたが、村井知事になり「新幹線の用地買収」にからんで、また復活され今日に至りました。
阿部知事は選挙の際、旧田中派の票狙いで、「態度保留」としましたが、それは単なるポーズであったことが明らかになったのです。
◇ 役に立たないダム
このダムは当初、浅川と千曲川の合流点(長沼地区)の内水災害に対処するためのものと説明されていました。しかし、住民運動の指摘で、内水氾濫防止に役立たないことが明らかになり、今回の県の説明では、「内水氾濫防止のためではない」とはっきりと認めました。
では何のためのダム?県は苦し紛れに「上流・中流の洪水防止のため」と説明を変えましたが、ダム建設の「目的」がなくなったのに、それを変更してまでむりやり建設するとは、「ただ建設だけが目的のダム」としか言いようがありません。