2019年9月4日水曜日

環境会議 諏訪の歩み 設立当時の話を塩原会長に聞く

<環境会議通信351号(2019.7.8発行)への投稿記事から>
環境会議・諏訪の設立は
1989 (平成元年)7月で した。それから早や 31 年目で今年はちょうど 30 周年 になります。その頃のことを知らない会員も増えたの で、発足のころのお話を塩原俊会長にお聞きしました。 (なお、詳しい事柄は佐原が当時の資料を見て付け加 えました。
会社を 55 歳で定年退職して、5年間松本へ行って、 60 歳で諏訪へ帰ってきた。その頃、霧ヶ峰にはダイケ ングループなどの別荘地開発計画それに伴う水問題が 起きており、青木正博先生たちが反対運動をしていた ()。けれど運動をリードしてきた青木先生が亡く なってしまい(1984 )、新しく組織をつくらなけれ ばと思った。いろんな人に声をかけたが、5~6人し か集まらなくて、1989 7月の設立総会のときは 20 人くらい集まった。 設立の2年目、1990 7月の定 期総会の議題を見ると、 
.霧ヶ峰高原大規模開発について 
.諏訪郡下全域のゴルフ場・リゾート開発について 
.水源保護条例制定の署名運動の取り組みについ 
とある。
当時、リゾートブームを追い風にゴルフ場や 別荘開発計画が目白押しだった。 
里山の森林の大規模伐採、ゴルフ場の農薬散布など で飲料水や農業用水の枯渇・汚染が予想されて、それ を阻止するために「水源保護条例」を制定するように と県に求める直接請求運動が起こり、長野まで何度も 行った。署名運動は 1990 7 26 日から9 23 日ま での 60 日間、県下全域にわたって展開された。その結 果、19923月「長野県水環境保全条例」が公布され た。その第 11 条には、「知事は市町村長の申し出によ り水道水源保全地区を指定することができる」とうた っている。将来の乱開発から守るべき地域対策の一つ が示されている。これを活用したいものだ。 
同じころ、1990 8 19 日、軽井沢町で「第4回ゴルフ場問題全国交流集会」が開かれ、約 350 人が参 加した。リゾートブームで儲けようとする勢力に地方が翻弄された時期で、対抗する自然保護運動も各地に 起こっていた。 
1991 9 11 日の環境会議・諏訪のチラシを見る と、「霧ヶ峰が危ない! ダイケングループが工事着 ! MDIは環境アセスメント中!」とある。会で は、ダイケングループの工事即時中止と、MDIの開発予定地を合わせた広範囲の環境アセスの実施を県と 諏訪市に陳情した。午前0時をもって審議未了・廃案 となったいわゆる「暁の市議会」を午前0時まで大勢 で傍聴して、無言の圧力をかけたのも思い出す。 
Looop のメガソーラー計画で問題になっている霧 ヶ峰の例の場所も、当時、MDIが別荘開発計画を立 て、その後、県のアセスメントを通ってしまった。し かし、MDIは南の島、ガム島でリゾート開発に手を 出し失敗して、霧ヶ峰は計画のまま立ち消えとなった。 
当初、環境会議・諏訪から「いんふぉめいしょん」 という会誌が出されていた。今は「環境会議通信」に 引き継がれている。 
当時は業者の開発計画に行政が乗っかっていた。行 政がもっとしっかりしなければいけない。信州大学の 先生たちがしっかりしていたから、いろいろな催しが あった。住民運動が盛んになると、先生たちは住民運 動を指導できなくなった。学校の先生だとやはり学内 の立場があるから難しい。運動する人たちは変人が多 く、環境会議・諏訪も変わり者の集まりだった。住民 運動は大変だから途中でいやになってしまう。 
以前は開発することはいいことだという考え方が世 の中にあった。今は地域の人が地域のことに関心を持 つようになって、変わってきた。
(
長野県企業局は、茅野市から白樺湖、霧ヶ峰、美ヶ 原に至る有料観光道路(ビーナスライン)を企画し、 1961 年茅野市から着工、霧ヶ峰の強清水まで開通 (1968 )。続いて、沢渡りから旧御射山(もとみさ やま)遺跡を分断して、八島ヶ原高層湿原の脇を通す 計画だった。霧ヶ峰に測量用のポールが立てられてい るのを見た下諏訪町の新聞記者市川一雄氏が最初に問 題を提起した。諏訪市大手町の青木産婦人科医院院長 の青木正博氏は、在野の考古学者藤森栄一氏らと立ち 上げた「諏訪自然と文化を守る会」や他団体とともに 反対運動を展開。県に遺跡と湿原を守るよう路線変更 の陳情書を提出。その後、6万人の反対署名を担いで 上京、衆議院へ車道延長計画取り止めを請願した。結 局、県企業局は遺跡と湿原を大きく迂回する南周りル ートに変更。この間のいきさつは諏訪市角間新田出身 の作家新田次郎氏の「霧の子孫たち」に詳しい。ビー ナスラインができて、現在霧ヶ峰は通過地点になり、 宿泊施設は衰退し、帰化植物等に悩んでいる。 

その頃、尾瀬にも三平峠の下から尾瀬沼畔を通過す る自動車道路計画が延びてきており、危機感を抱いた 長蔵小屋の若き三代目平野長靖(ちょうせい)氏は反 対運動の進め方の相談に諏訪市の青木氏を訪ねてきた と聞く。平野氏は 1971 7月発足したばかりの環境庁 の大石武一長官に直接訴え、長官は尾瀬の車道工事現 場を視察した。平野氏は東京で開く「尾瀬の自然を守 る会」の集会に出席のため上京途中、疲労と低体温症 のため、山中で 36 歳で亡くなった。尾瀬車道は途中ま でで 1971 12 月中止された。現在、尾瀬は車から下 りて歩いて訪れる場所となっている。(佐原・記

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