2011年7月20日水曜日

■ 風土学    清水馨

■ 風土学をはじめるにあたって
大正期から昭和にかけて諏訪で活動した三澤勝衛の「風土の発見と創造」いわゆる風土論が今、日本ばかりでなく世界の、新しい持続可能社会を目指す人々の間で注目を集めています。ここ十年ほど、地球をとりまく環境、とりわけ地球温暖化やエネルギー資源(食料を含む)の枯渇、投機マネーの横行による異常な経済システムの破綻、貧困と不公平を原因とする宗教対立、テロ、膨張する軍拡と核兵器の脅威などなど、人類のあらゆる分野で修復不可能な事態が露見しています。これは日本でもいえることです。大きな問題だけを取り出しても、地域の過疎化と都市の過密、高度成長期に始まった都市への人口集中は今、政令都市以上の都市人口が全国の地域人口を上回る勢いで膨張しています。都市は何も生み出さない、ただひたすら消費するところです。ここから大量消費型経済が始まりました。その反対に地域は過疎化によって高齢化し、経済の疲弊、国土保全もままならない状況に追い込まれています。資源はその全てが地域から生まれるものですが、都市経済は奪えるだけ奪ったのち、エネルギーは外国から、そして危険極まりない原発に依存し、食糧さえ輸入に依存するという不安定な状況を生み出してしまいました。人口が一極集中すればエネルギーも食料もその他全ての「物」が一極集中型の供給体制にならざるをえません。その典型が原子力発電を中心とした独占的な電力供給といえるでしょう。現在の日本経済の中枢をなすものは輸出入産業です。輸出入は必然的に国際競争に曝されます。その競争に勝ち抜くためには国内でのコストダウンが求められます。結果、そこで働く人々には不正常な労働条件が政策的に強制され、下請けの中小企業には納入単価切り下げとその競争が強いられます。ほとんどの下請け企業が消費税分の請求が出来ないというのが現状です。企業倒産が増加し続け、一ヶ月の給与が十万円に満たないという人々が何百万人も生まれています。このような人々に対して月収が一千万円以上という人々がいるという史上最大の格差社会。いずれもこのままの社会、経済体制の下では修復不可能なことばかりです。そして不幸にも今年3・11の東北大震災と津波災害、これに追い討ちをかけるように発生した福島原発の大人災。この事態は昭和20年の太平洋戦争終結時の廃墟から立ち上がったときと同等の民族的な一大事です。敗戦直後の日本では多くの人々が、戦前(明治期以後を含めて)の日本のあり方を反省して新しい国作りを模索しました。今私たちがおかれた状況も同じです。高度成長期から今日まで、特に小泉内閣の構造改革路線や、新自由主義政策の元で加速されたルールなき資本主義体制を根底から反省するところから出発して、新たな国作りを模索する時ではないかと思います。新しい国のありようといっても、そんなに難しい話ではありません。自然エネルギーの自給を目指す(日本は自然エネルギー資源大国)。国内消費を高めるために、男女同一労働同一賃金制と最低賃金の大幅引き上げ(時給1000円)(これで必然的に非正規労働はなくなる)農林漁業など一次産業では外国からの輸入制限で国内自給率を高めるなどなど。このような方向で循環型社会を構築することは決して不可能なことではありません。歴史的に見ても世界の中で循環型社会を経験済みの国は日本しかありません(江戸期)、そしてこれらを地域で模索しようとした時、大正から昭和にかけて諏訪の地で活躍した地理学の教師「三澤勝衛」の風土学の思想と実践がにわかに注目を集めてきたのです。

■ 三澤勝衛について
三澤勝衛は信州長野市に生まれ、苦学の末、地理科教員免許を取得し1920年(大正9年)から長野県立諏訪中学校(現、諏訪清陵高校)の教諭となり「自分の眼で見て、自分の頭で考える」教育の実践と、独自の「風土論」を確立し、風土に根ざした産業、暮らし、地域づくりに生涯をささげました。1937年(昭和12年)没。
三澤は風土について以下のような概観を述べています。

◆ 風土は大気と大地の接触面「大気でもない、気候でもない、土質でもない、独立した接触面」でありこの接触面こそ風土であり(人間の生活空間)風土こそ地域個性、地域力の源泉である。

◆ 風土に優劣はない、活かせば無価格(投資の要らない)で偉大な価値を発揮する。

◆ 自然的な特徴と、郷土人の歴史的な努力が総合さ れ、更に有機的に関連する「統一体」としての風土、言い換えれば地域が形成されていくことこそが、地域振興と個性的で魅力ある地域作りにつながっていく。
       
風土という言葉は、そんなに珍しい言葉ではありません。地域の風物やしきたり、伝統行事などを紹介する時「何々風土記」などというふうに使われたり、「この地域の風土は」などというふうにその地域の自然や景観などの特徴を言い表す言葉としても使われます。しかし三澤の言う風土は単に事象を表す言葉としてではなく、そこに生きる人々の暮らしや、産業や、コミュニテイー(共同体)にどのように生かしていくかを見据えたものとして総合的に捉えているところに特徴があります。特に地域の振興(地域産業の発展)は、地域固有の自然の力とそれを認識し活用する地域人が一体となった中で総合的に実現させることが大事であると説いています。またそれらの地域力を掴むためには野外にたって大地と大気の接触面に現れる「地表現象」(地形や風向き、気温、湿度、植生から古くからの土地利用、屋敷や村の姿、などなど・・)に注目し、その地域に合った現象を選び、他の地域とも比較し、総合的に判断していくことで把握できる。また科学についても現代科学を駆使しつつも細分化され断片的になっている知見にとらわれず、地域の中の貴重な現象を総合的に捉える視点を持つべきであるとして、地域の探求には科学主義を超えた科学のあり方をさえ指摘しています。風土学はこのような風土の生かし方にとどまらず、教育の分野にも及び、特に郷土教育を重視することを提唱しました。自分の目で見て、自分で考えるという教育理念を元に、子供達にとって郷土(地域)はその生活の場であり、その風土現象は自分の生活と深いかかわりを持っていることを深く認識させることで魂に触れる体験ができる。地域の姿に分け入ることで物事を深く考えるようになり、そこに真の学習が成り立つと説く。郷土教育をベースに日本全国、更には世界の中の地域と自分の関係性をも認識していくことができる。そして教育者や地域のリーダー達に「いかにしてその答えに到達しえたのかという過程を彼ら(子供達)に充分呑み込ませる事に、特に関心と努力を払うべきである」として、その学び方を徹底して指導しました。

「由来、教育というものは教えるものではなく、学ばせるものである。その学び方を指導するのである。背負って川を渡るのではなく、手を引いて川を渡らせるのである。既成のものを注ぎ込むのではない。構成させるのである。否、創造させるのである。ただ他人の描いた絵を観照させるだけではない。自分自身で描かせるのである。理解の真底には体得がなければならないのである。それが人格そのものの中に完全に溶け込んで人格化されていくところのものでなければならないのである。いつまでも永く生きているものでなくてはならない。― 中略 ― 要は魂と魂との接触でなくてはならないのである。否、共鳴でなくてはならないのである。すなわち魂のある教育、否、魂に触れ得る教育でなくてはならないのである。」

この一文は三澤の教育論の一節です。三澤は自身の風土論の40%をこの教育論に割いていますが、地域の活性化という仕事の中で、その将来、未来を担う子供達の成育の如何がどんなに重要であるかを示すものとして注目されます。

■ 風土論と江戸期の循環型社会
三澤風土論の中には、地域が成り立ってきた歴史的なものにも関心を寄せ、そこから学ぶ姿勢を強調していますが、風土論を読み込むにつれ、そこには色濃く江戸期にほぼ完成していた完全循環型社会、経済体制の姿の共通性を認識させられます。今後このシリーズを通じて学び探求していく過程では、風土学と並行して江戸に学ぶことが多くなっていくことと思います。

 今回はその多くを「三澤勝衛著作集」から多くを引用させていただきました。この著作集は2009年1月、農山漁村文化協会から出版された(全四巻)ものです。
またこの出版以後風土学の学習会が幾つか生まれ、今年三月には諏訪で講演会も行われました。この講演会は、現在私が会長をおおせつかっている、長野県諏訪地方事務所主管の諏訪地域づくり協議会が主催して開いたものです。現在も三澤が教べんを取った長野県立諏訪清陵高校(旧制諏訪中学校)では学習会がつづけられています。また高校内には三澤文庫が整備され、蔵書や論文などが保管展示されています。

1 件のコメント:

  1. 僕の祖父(宮坂正一)は三沢がいた頃に旧制諏中の学友会長をやったんだ。
    家業を継ぐために上の学校には行かなかったが戦後は市会議員をやったという。
    僕が清陵に入るまで生きていてくれたら、面白い話が聞けただろう。

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