2011年6月17日金曜日

環境論    ⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅩⅢ     伊藤 貞彦

特論:再生可能エネルギー(2)

(四)
先に、原発が基幹電源に位置付けられてきた経験を見た。そのことによって、原発の建設が国策として各地で行われるようになる。原発の建設に現実的弾みをつけたのは、エネルギー基本計画実行のための法、いわゆる電源三法の成立である。
原発は、大量の冷却水を必要とするため、容易に海水を得られる海沿いの地に建設することが望ましい。現在の原発54基についても、ほとんどが海沿いにつくられている。しかし、この国の人びとには、原発の洗礼を受けたことによる核についての危機意識が潜在的に強固にある。そのため、原発の立地は決してスムーズには決定されないのである。そこで、候補地が選定されると、地元住民の説得と沿岸の漁業に対する補償交渉に長い時間が必要とされる。そのことから、原発は、建設費に加え、地元自治体、住民対策、漁業補償などで初期投資が巨大なものとなる。また、こうした交渉によって運転開始までには、殆どの場合10余年を費やすこととなるのである。ちなみに、原発1基について運転開始までの10年間で、地元には平均449億円の金が落とされるとされている。
そこで、73年の石油ショック後、こうした費用と時間を少しでも短縮するために定められたものが電源三法である。これは、電源開発促進法、同対策特別会計法、発電用施設周辺地域整備法から成り、財源は電力会社が販売電力量に応じて払う電源促進税によってまかなわれる。もちろんこれは、電気料金に含まれているわけで、一般消費者が負担させられているものである。例えば、東電の場合、一般家庭の月電気量6,222円の内108円が促進税の分といえる。
こうして確保された資金は、原発立地の諸対策費のみならず、高速増殖炉開発や、核燃サイクルの開発にも使われているのである。
とはいえ、この電源三法に基く交付金は、過疎と財政難に悩んできた原発立地を受け入れた地方自治体の経済基盤を大きく変えるものとなる。例えば、福島第一・第二原発立地の市町村には福島県全体で総額130億円が毎年公布されている。これと固定資産税収入、関連事業の群立、雇用環境の拡大などを考えると、ひとたび原発を受け入れるや否や、その他の社会的経済基盤が原発頼みの形に形成されてしまうことは火を見るより明らかといえる。この地の脱原発は、苦難の道となろう。
現在、日米政府は、モンゴルに共同の使用済み核燃料の国際的貯蔵処分施設の建設を進めようとしているが、このための資金の一部も電源促進税から支出されるのである。
わたしたちは、原発の是非を問うわけでもない選挙で、これまでの政府を選び、支え、原発促進を図ったつもりもない、電気料金で、その資金を提供し続けてきたこととなるのである。ここにメスを加えなければ、誤りは無意識的に持続されるほかはないといえる。

(五)
今回の原発事故について、その実態と、刻々と代り続ける状況についての報告が、政府、東京電力、原子力安全委員会、原子力安全・保安院のそれぞれから為され、その間の混乱や食い違いにふりまわされた。また、その報告の内容が、とても一般国民向けとはいえぬ専門用語や的外れの説明に終始しており、大いに顰蹙を買った。そこから、東電は隠蔽を図っているのではないかとか、東電と政府間のデータ突合せは不在ではないかとか、原子力安全・保安院とは単なる専門バカの状況報告者なのかとか、さまざまな批判も吹き出した。あたりまえである。もっともらしい顔はしているが、肝心のところではいかなる責任を負うことも拒否しているだけのことであった。
事故後の3月末、原子力専門家の16人が、緊急提言を行って、専門家の結集による事態の収拾を訴えた。わたしのような門外漢からみれば、あまりにも遅い反応ではないかと思える。もっと前に、現在のような原発推進・対策体制の問題点は明らかで、少なからぬ人たちが警鐘を鳴らしてもいたと考えるからである。
東大工学部に原子力工学科が設けられたのは60年である。このときの1期生は15人であったという。原発専門家の誕生である。その1人、立教大学名誉教授の安斎によると、彼はここで反原発の立場をとったことで、17年間助手に止められ、主任教授などは、研修生に対し彼との接触を禁じたと回想している。つまり、原発推進は、60年よりすでに充分国策的であり、一定限度以上のリスクは国が引き受けることを前提としていたのである。このことは、前原子力委員長代理の田中俊一が核燃料サイクル研究より現実の原子力研究の足元を固めることを為すべきと述べたところ、大攻撃にさらされたと証言していることからも伺える。国策に疑問を呈する学者が常に冷や飯を食わされ続けてきたことは、もはやこの国の伝統である。こうなれば、この国の近代化は富国強兵政策がつくりだした伝統だといってもよい。
その16人の提言は、「原子力村」の縦割り構造を打破すべきというものであった。だが、問題は縦割り構造だけではない。「原子力村」そのものの解体こそすべきものである。
「原子力村」の構成を見てみよう。先ず経済産業省のもとに、資源エネルギー庁と、原子力安全・保安院がある。前者はエネルギー政策の推進機関であり、後者は800人の人員を擁し、原始力開発に対する活動や安全等について取り締まりを行っている。内閣府には、原子力委員会と原子力安全委員会がある。原子力委員会は56年に設置され、原子力についての研究・開発・利用についての政策を決定する。委員は5人で、その下に各部会が置かれ、01年には市民参加懇談会も設置されている。原子力安全委員会は原子力についての安全規制として指針を定め審査を行っている。78年10月「むつ」の事故後、原子力委員会が政策と共に審査を行っていることへの疑問が生じ、分離設立されたものである。委員は5人で、その下に専門委員300人が属し、各専門審議会を構成している。文部科学省のもとには、日本原子力研究機構等の研究機関がある。このものものしい体制の「原子力村」と、原発をもつ電力会社には、そこに職を得ようとする多くの学者や研究者やその予備軍が連なっているのである。そこには、反原発研究者や、反原発市民の入り込む余地がないことはいうまでもない。
こうした「原子力村」ではあるが、かつては原子力委員会のもとに、旧日本原子力研究所がおかれ、その下に行政組織として旧科学技術庁がおかれる形で、原子力開発に関わる体制は一本化していたのであった。それが、行政の縄張り争いを受けて、01年の中央省庁再編の中で、この一体化が崩され、軽水炉原発事業は経産省、高速増殖炉・核融合部門は文科省に分離させられたのである。
現在、原子力安全・保安院を経産省から分離する案が出されているが、問題の根はそんなところにはない。この「原子力村」という巨大ピラミッドの解体と、新しい原子力研究・監視体制を創出することが求められているのである。(続く)

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