遊びを通して
■魚のつかみ捕り 昨年の秋、この通信でも紹介された「三人委員会・哲学塾」、群馬県片品村で開かれた集まりでの論議の中で、「魚のつかみ捕り大会」の話が出ました。これはあちこちのPTAや青少年育成会などでごく普通に行われているんですが、三人委員会のお一人の大熊孝・新潟大学名誉教授(治水工学)が「あれはちょっとおかしいんじゃないか」と問題提起されました。小川や池での魚捕りはかつての子供たち(概ね小学生)のわくわくするような遊びの一つでしたが、囲い込んだビニールシートの中で、逃げ場のない魚を追い回すようなことはありませんでした。魚捕りの場所は、もっぱら自然に流れる小川や池に限られていたし、ましてや大人がすべて段取りをして、「さあどうぞ」なんて、お城の馬鹿殿様をあそばせるようなことは全くありませんでした。とにかくわたしもこの「つかみ捕り」には腹を立てている一人です。隠れるところも、逃げるところもない狭い場所に囲い込んだ魚を、よってたかって追い回して捕まえる。魚にとってみれば「卑怯者…」と、怒りをもって叫びたくなるような状況です。授業の中では「卑怯は振る舞いはよくないこと」と教えているはずなのに、実際には「弱いものは強いものの自由にしてよろしい」と教えているに等しい光景です。人同士の関係でも、はしっこい子もいれば、ちょっとのろい子もいる中で、はしっこいやつはたんと捕れ、それは自分のものだから自慢顔。捕れなかった子は半ベソ。これも許せない。こんなことが遊びをとおした教育の場で、無批判に行われているんです。
■自然の中の魚捕り その昔、といっても今から高々40年位遡ったころまでですが、魚捕りといえば「むら」のまわりの小川や小さな池が舞台です。大人は一切関わりません。関わらないどころか、その頃の農家は一年中忙しい。学校が休みの日には、「仕事手伝え」といわれるので、魚捕りにでかけるには、親の目を盗んでソット抜け出さなければなりません。大抵5~6年生が親分になって、その後を1年生、2年生たちがぞろぞろくっついていきます。川につくと多くの場合「川湛え(かわたたえ)」といって、二股になった川の一方に石を積み、すき間には付近の土手の土付きの芝をはいで押し込んで水止めとし、その川の流れをせき止めて川干しをします。しかしいくら丁寧にやっても健全には水をせき止められません。まだ少しの流れはそのまま。この作業の段取りや実際にせきとめ作業をするのは上級生。下級生はセッセコ、セッセコ石や芝を運ぶ役です。
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